長崎市議会 2019-09-06 2019-09-06 長崎市:令和元年第4回定例会(3日目) 本文
出島以前には岬の教会と呼ばれたイエズス会本部があったと言われ、開港から1614年の徳川幕府の禁教令までの約四十数年の間に、教会群や病院、福祉施設などが次々と建設され、まるで小ローマのような町並みが出現したと言われています。
出島以前には岬の教会と呼ばれたイエズス会本部があったと言われ、開港から1614年の徳川幕府の禁教令までの約四十数年の間に、教会群や病院、福祉施設などが次々と建設され、まるで小ローマのような町並みが出現したと言われています。
それは、1607年までさかのぼりますが、徳川幕府時代ということになります。
1571年の長崎開港当時イエズス会が建てた岬の教会、江戸時代には徳川幕府の長崎奉行所西役所、さらに幕末には海軍伝習所などが存在していたのは間違いありません。国指定の史跡クラスの場所であることは明らかであります。 長崎市は県と協力して徹底的に埋蔵物調査をするべきだと考えます。
江戸時代に入り、家康は朝鮮との国交回復を望んだが、こちら側も朝鮮側も先に頭を下げたくはなく、義智はばれれば藩没収、お国断絶になる覚悟でひそかに国印、国書を偽造し、幕府には朝鮮が頭を下げてきたように、朝鮮側には徳川幕府が頭を下げているようにつくって、国交が回復いたしました。対馬と朝鮮の行き来は五十数回にもわたり、朝鮮通信使は国交回復後、12回、日本へ来ています。
発掘調査、これは徳川幕府の陣地跡やったということで。そしてもう一つは、あれは何かな、VRよみがえれ何とか、原城の何というかな、あれも指摘されているでしょう、考古学者から。どうですか、指摘されているでしょう。批判を受けているでしょう。教育長、正直に言ってください。私ここに資料を持っていますから。 ○議長(林田久富君) 永田教育長。
昔は恐らく三つ葉葵というのは江戸幕府の象徴であって徳川幕府の象徴であれは誰もかれも使えなかったわけでしょうから、あれをもってる人はまさしく偉い人になったわけで、水戸黄門は印籠を出して、最後終わるというお芝居なんですけども、印籠につけておった家紋、もしくは洋服とかああいうものもピクトグラムの一種なんですけども、最近ピクトグラムとQRコードを一緒にしたり、今数字でも表すんですけども、QRコードは皆さん御存
徳川幕府の直轄である長崎奉行の大名行列は、九州に入ると、小倉の常盤橋を初めとして、肥前国長崎に至る57里、228キロメートルを25の宿場で威風堂々たる行列であったと記録されております。 そして、長崎奉行を初め江戸参府では、険しい日見峠、井樋ノ尾峠、井樋ノ尾峠というのは、今、渇水問題でいろいろ問題があっていますけど、非常に水がおいしいところです。
1857年11月12日、徳川幕府から招かれたオランダ軍医ポンペが長崎奉行所西役所の医学伝習所で松本良順以下12人の日本人に体系的な西洋医学の教育を始めました。それが最初です。これが我が国の近代西洋医学教育の発祥地といわれ、同時に長崎大学医学部創始のときであります。医学部の卒業生はこれまで1万人余を輩出して、我が国の医学会をリードしています。
その中に、幕末、徳川幕府は、長崎に西洋医学の病院を建てました。その用地として、一人の貧しい農民に土地の譲渡を頼んだところ、幕府の申し出にもかかわらず、農民はかたくなに拒否しました。これに対して、幕府は強制的に土地を奪うどころか、その農民の言い分を認めて、別の土地を当たることにしたというのです。身分制度に縛られたこの江戸時代でさえこうですよ。ところが、現代は民主主義の時代のはずです。
これは徳川幕府が歴代励行してきた「祖法」に対する爆弾的レジスタンスで、大きな問題となりました。自葬事件未解決のまま、大政奉還を経て明治新政府誕生。日本は文明開化の新しい時代を迎えたものの、新政府が浦上キリシタンに下した処置は、神道国家主義政策のもと、「全村民3,394名を名古屋以西10万石以上の大名、21藩22か所へ流配し棄教を強いる」という世界史上、類のない厳しいものでした。
徳川幕府によるキリスト教禁止令は、1つに「キリスト教の放棄」、2つに「秘密裏に信仰を続けることの禁止」の選択を迫るものでありました。拒めば、死を意味したのであります。 イコモスは、キリスト教世界のキリスト教に対する禁教と弾圧や迫害を異教徒である徳川幕府が行ったことで生まれた特異なキリシタン文化に絞り、明らかにすることを求めているものと私は思っています。
237 教育次長(寺田集施君) 島原市のキリシタン関連遺産の現状と認識についてでありますけれども、議員が今おっしゃったとおり、キリシタン大名有馬晴信の所領でありました島原半島につきましては、キリスト教の信仰が盛んな土地であったため、島原藩主として赴任した松倉氏が徳川幕府の政策を受け、徹底的なキリシタンの取り締まりと弾圧を行っております。
徳川幕府以降になると一国一城制度ということで、諫早市内には島原城とか熊本城とか、ああいう一般的なイメージのお城というのはないのですけれども、高城もそうだとは思うのですけれども、それ以前からの城跡というのはたくさんございます。
徳川幕府は、キリスト教の布教を恐れ、市内に在住していたポルトガル人を隔離居住させる目的で、1634年、長崎の有力町人25名に命じ、岬突端の一角を埋め立て、面積3,936坪余りの扇形の島を築かせ、ポルトガル商人を隔離、収容したのが出島の始まりであります。
そこで、ある意味、市長公室という機関をつくることで、この機関に私の思いをそれぞれ横断的に指揮命令を発していく、そういう徳川幕府でいくと側用人制度というんですけど、そういうシステムが要ると思って実施しました。それはスピード感を高めるため、あるいは住民の相談を一手にワンストップでもらうためというその目的があったわけであります。
私も徳川幕府の戦艦「開陽丸」の保存状況の研修に、北海道の江差まで行ったことがあります。開陽丸も金網をかぶせて保存がなされておりました。
観光丸は、1855年、オランダ国王ウィレム3世から徳川幕府に献上され、長崎海軍伝習所の練習艦として使用された日本初の蒸気帆船であります。また、勝海舟、榎本武揚など幕府の俊英たちが、ここ長崎で、この観光丸で当時の最新の航海術を学んでおります。 現在の観光丸は、設計図と模型をもとに、オランダの造船所で、できる限り、かつての姿に近く復元、建造をされていると聞き及んでおります。
我が平戸市では、オランダ通商四百年の節目の年でございますが、一八五九年に徳川幕府は通商条約により横浜港を開港いたしました。世界に開国をしたわけでございますが、それから開国いたしましてから百五十年になります。 また、この年、一八五九年にはアメリカでロックフェラーが石油採掘に成功し、石油文明の幕開けの年でもあります。一八八九年には明治維新政府により明治憲法が発布されまして百二十年になります。
この点については後で片岡先生のほうから詳しくご紹介いただけるんじゃないかと思いますけれども、要は15世紀の半ばに日本にキリスト教がやってまいりまして、布教ということが行われるんですけれども、残念なことに、徳川幕府になりまして禁教と。結局は、その中で潜伏という形をとって、約250年間も直接的なご指導をいただける神父さん等がいない中でのキリシタンの活動がある。
島原の乱が単なる宗教戦争でなく、島原城普請のため原城、日野江城の石垣を取り崩し運ぶ苦役、過酷な租税の取り立てが原城で一揆島原の乱の一因となったこと、3万7,000人が死んだ史実、このことが徳川幕府の鎖国政策の決定的要因となった史実、歴史性を説明する親切さが必要」などと書いてあります。 内容に多少の問題はあるかもしれませんけれども、島原城の看板にはこう書いてありました。